年賀状の歴史は古く、平安時代にまで遡ると言われています。

江戸時代からは「飛脚」と呼ばれる現代の郵便配達員が登場し、明治時代には庶民の間でも郵便配達が盛んに行われるようになりました。

そして戦後になると現在も使われている「お年玉はがき」が誕生し、需要が伸びたとされています。

ところが近年ITインフラの整備が進むにつれ、年賀状ではなく新年の挨拶はメールや電話で行う人が増えた事による、年賀状離れが指摘されています。

今回は年賀状の歴史について紹介します。

日本ではいつから年賀状を送っているの?

年賀の書状が取り交わされたのは7世期後半

日本には6世紀中頃、百済から中国式の暦が伝わり、7世紀初頭に大和朝廷に正式に採用されたといわれています。

漢字は紀元前後に伝来していたと考えられていますが、紙の伝来はそれよりも後だったため、当時は木片に書くのが一般的でした。

3世紀頃、紙が日本に伝来し6世紀以降になるとやっと、比較的容易に紙が手に入るようになります。

その後、7世紀中頃に大化の改新による革命により、様々な法整備が行われました。

その中の一つが、政治的な伝令書を届けるための駅場を畿内各所に置く「飛駅使」制度です。

離れた人同士で書状でのやり取りを行うようになったのは、それ以降だったのではないかと考えられます。

平安時代から年賀状がはじまる

日本で「年賀の書状」が交わされるようになったのは、7世紀後半以降だったと考えられています。

しかし残念ながら、「日本で最初の年賀状」が、いつ・誰の手によって出されたかは、史料が残っておらず正確なことはわかっていません。

それではなぜ、年賀状の始まりが平安時代に遡る、といわれているのでしょうか?

それは、平安後期に藤原明衡によってまとめられた往来物(おうらいもの・手紙文例集)「雲州消息」にあります。

「雲州消息」内に、年始の挨拶を含む文例が数編収められていたため、少なくともこの頃には、一部の貴族の間では手紙で年始の挨拶をしていたのではないか、と考えられます。

江戸時代の飛脚制度

江戸時代に入ると街道の整備とともに、現代の宅配便や郵便配達に近い「飛脚」制度がさらに充実していきます。

江戸中期になり、爆発的に町人文化が繁栄したことで、飛脚の需要は遠隔地への配達のみにとどまらず、江戸市中での配達を主とする「町飛脚」も多く現れるようになりました。

そして町飛脚の登場は、武士階級だけでなく庶民でも手紙を出すことが一般的になってきたことの象徴といえます。

当時の日本は、世界的にも珍しく庶民教育の急速な普及が進んでおり、江戸後期にはすでに、日本は世界一の就学率、識字率の高さを誇っていました。

当時の学校「寺子屋」では「よみ・かき・そろばん」の学習が行われており、読本や習字の手本には、主に前述の往来物と呼ばれる書物が使われていました。

要するに、寺子屋で学ぶ「よみ・かき」に関しては、手紙の読み方・書き方を学んでいたのです。

そうした背景から、江戸時代にはすでに「年賀の書状」が、身近な存在だったのではないかと考えられます。

とはいえ、当時の年賀状は必ずしも1月1日までに出されていたわけではありませんでした。

明治時代の郵便制度導入で年賀状が広まる

明治4年(1871年)に郵便制度が開始されたことをきっかけに、年賀状を送ることが一般的になります。

そして、明治6年(1873年)に郵便はがきの発行が開始され、明治20年(1887年)頃にかけて年賀状が激増し、現代の年賀状に近い形になっていきました。

年賀状の激増に伴い、元日の消印を狙って年末に投函する人も増え続けた結果、文字通り郵便局員たちは不眠不休で作業にあたり、押印担当者の手はマメで腫れ上がるほどだったといわれています。

そんな状況を回避しようと取り入れた制度が、現代まで続く、年末のうちに年賀状を受け付けて元旦に配達する「年賀郵便」の特別取扱です。

この制度は明治32年(1899年)に導入され、徐々に全国へと浸透していきました。

その後、昭和24年(1949年)12月にはお年玉付年賀はがきの発行が開始され、年賀状を送ることが国民的行事として定着。

明治38年(1905年)当時、年賀状の数は1億枚程度でしたが、平成16年(2004年)にピークを迎え、その数は44億5000万枚にまで増加しました。

関東大震災や戦争で中止に

年賀状の取扱数は年々増え続け、昭和10年(1935年)には7億枚を超えたともいわれています。

しかし昭和12年(1937年)に始まった日中戦局が徐々に悪化。

物資の不足などから年賀状を自粛する動きが全国に広がっていき、昭和15年(1940年)になると年賀郵便の特別取扱いが中止されてしまいます。

そして昭和16年(1941年)に、太平洋戦争が開戦してから終戦を迎える昭和20年(1945年)の間、元日に年賀状が届くことがほとんどなくなってしまいます。

その影響を受け、明治32年に開始された年賀郵便の特別取り扱いは実質中止となり、再開されるまでに数年の時間を要することとなりました。

世間が戦後の復興モードに沸き始めた、昭和23年(1948年)、年賀郵便の特別取扱いが再開されますが、第二次大戦以前に取り扱っていたピーク時に比べると、その半分にも至らなかったといわれています。

年賀郵便制度の導入

1月1日の消印のため導入された年賀郵便

当時の郵便物は、受付局・配達局の2つの消印が押されており、もちろん、年賀状にも原則としてその規則が適用されていました。

そのため多くの人が、受付局もしくは配達局での「1月1日」の消印を狙って年賀状を出すようになりました。

しかし、早めに年賀状を投函してしまったがために、年明け前に配達されてしまっては意味がありません。

その結果、年末26〜28日あたりは、元旦当日郵送の郵便物の数が膨れ上がっていきました。

その対策として、1899年(明治32年)に指定局での「年賀郵便」の特別取扱いが開始されます。

年賀郵便の特別取扱いとは、年末の一定期間、12月20日~30日の間であれば、指定された郵便局に持ち込むことで「1月1日」消印で新年に郵送する、という制度です。

しかし、必ずしも元日着で郵送されるわけではなかったようです。

年賀郵便は全国的に

元は、限られた郵便局のみだった年賀郵便特別取扱の指定局も徐々に増加し、1905年(明治38年)には全国すべての郵便局で、年賀郵便の取扱が可能となりました。

しかし当時、「年賀郵便」を受付けてもらうには、いくつかの規則がありました。

・「年賀郵便」は複数枚でまとめること

・「年賀郵便」は束ねて札をつけること

・ 原則として郵便局に直接持ち込むこと

しかし、これらの規則は1906年(明治39年)、年賀特別郵便規則が公布されたことで一変。

年賀特別郵便規則が公布されたことで、翌1907年(明治40年)から、年賀はがきのおもて面に「年賀」と表記さえすれば、郵便ポストへ投函することが可能となりました。

こうして現代に続く年賀郵便の制度がようやく形となったのです。

お年玉付年賀状の歴史

官製年賀はがきはお年玉付年賀状がはじまり

現代では年賀はがきといえば、お年玉くじが付いているのが一般的です。

しかし、お年玉付の年賀状が始まったのは1949年(昭和24年)の出来事です。

それ以前の年賀状は、そもそも年賀専用はがきが存在しておらず、官製はがき(現在は通常はがき)を年賀状として使用していました。

つまり、年賀専用はがきは、このお年玉くじが付いたはがきで初めて生まれたものであるのです。

そして、世間一般であまり知られていませんが、このお年玉くじ付きにする、という発案は、行政ではなく国民によるものでした。

全くの民間人である、京都在住の林正治氏(当時42歳)が、「年賀状が戦前のように普及していれば、互いの消息も確認でき、打ちひしがれた気分から立ち直るきっかけにもなる」と考えたのです。

林氏は、そういったアイデアのもと、自ら宣伝用ポスターや見本のはがきまでを製作し、郵政省に持ち込みます。

郵政省の会議では、「国民が困窮している時代に、年賀状を送った相手に賞品が当たるなどと、うかつなことを言っている場合ではない」との反対意見もありましたが、紆余曲折を経て、お年玉付年賀状の採用が決定。

世界で類を見ない制度が実現することとなりました。

進みつつある年賀状離れ

現代では、インターネットやスマートフォンが普及したことにより、若い世代を中心に年賀状離れの進行が指摘されています。

たしかに、メールやLINEで新年の挨拶を済ませることで、手間もかからず気軽に送ることができます。

しかしこうしたデジタル化が進む現代だからこそ、ひと手間かけて作られた年賀状を受け取ると、嬉しいと感じるものではないでしょうか。

印刷のみの年賀状ではなく、一言でもよいので直筆でのメッセージを添えると、相手に思いを伝えることができますよ。

まとめ

年賀状には、平安時代から続く長い歴史があります。

最近では年賀状を出すということも減ってきていますが、これまでの年賀状の歴史を感じながら、年賀状を大切な人に向けて送ってみるというのも、良いかもしれませんね。

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