お年玉付き年賀はがき誕生
年賀状の歴史
画期的アイデア
今では、官製の年賀はがきといえば当たり前になっているお年玉くじ。この制度が始まるのは、1949(昭和24)年です。というより、それ以前は、通常の官製はがきを年賀状として使っていただけで、官製の年賀専用はがきというものが誕生するのが、このお年玉くじ付きはがきからなのです。
そして、これはあまり知られていないことですが、このお年玉くじ付きという発想は、官ではなく、民からでたもの。京都在住の全くの民間人、林正治氏(当時42歳)が、「年賀状が戦前のように復活すれば、お互いの消息もわかり、うちひしがれた気分から立ち直るきっかけともなる」と考え、このアイデアを思いつきます。林氏は、そのアイデアをもとに、自ら見本のはがきや宣伝用のポスターまでつくり、郵政省に持ち込みます。
郵政省の会議では「国民が困窮している時代に、送った相手に賞品が当たるなどと、のんびりしたことを言っていられる状態ではない」との反論もありましたが、紆余曲折を経た後、採用が決定。世界にも類を見ない制度が実現するのです。
戦前のレベルを突破
発売と同時に、この初めての年賀(専用)はがきは大きな話題を呼び、大ヒットします。
戦後復興に向ける国民の思い、そして、伝統的な日本文化に基づく新年への祝賀の思い、そんな希望に満ちた気分に、この「夢のお年玉」はフィットしたのでしょう。この年、年賀状の取扱量は大きく伸びます。これが起爆剤となり、年賀郵便の取り扱いは急伸し、1955(昭和30)年には戦前のピーク時のレベルを突破。その後も、同じペースで増え続けて行きます。
なお、この55年には、米軍占領下に置かれたままの沖縄でも、年賀はがきが発行され、翌年には年賀切手も発行されています。
賞品にも時代相
ところで、第1回のお年玉付き年賀はがきの賞品は次のようなものでした。
特等:ミシン
1等:純毛洋服地
2等:学童用グローブ
3等:学童用こうもり傘‥‥
この時代の庶民の夢のひとつに、ホームメイドで洋服をつくれる家庭がありました。収入に比べ、既製服が高いということなのかもしれません。また、視線が子供に向けられているのも、ベビーブームの反映と考えられます。
その後、毎年の最高賞品(1966年以降は特等が廃止になり、1等が最高賞)を見ていくだけでも、時代相がよくわかります。1956(昭和31)年には電気洗濯機、60(昭和35)年にはフォームラバーマットレス、65(昭和40)年以降はポータブルテレビや8ミリ撮影機・映写機セットなどが続き、84(昭和59)年には電子レンジが、86(昭和61)年にはビデオテープレコーダーが登場します。庶民の手が届きそうでなかなか買えないものが賞品で平成に入ってからは、海外旅行や最新式テレビ、パソコンなど数点の中から1点を選ぶ形式に変わります。バブル景気とその崩壊、そして、その間に進行した消費の多様化を反映しています。