はがきによる年賀状の急速な普及

小型はがき
国民の間に定着してきた郵便制度と、日本に古くからあった「年賀状」の伝統が結びつくには、さほどの時間を要しませんでした。郵便制度が誕生するのと同時に、上流階級の人々や知識人を中心に、それを利用した年賀状が、ひんぱんに出されています。当初は、和紙などに書いた年賀の言葉を、封書で送っていたのですが、はがきが普及定着してくると、主流はそちらに移行していきます。
そもそも賀詞と名前だけでも成り立つ賀状は、さほど長文にはなりません。はがきという形態は、それにうってつけでした。はがきで年賀状を出すことが、上流階級や知識人のみならず、一般庶民にも身近な存在になっていきました。ところが、困った問題が起こるのです。

必要に迫られて生まれた年賀状

小型はがき

明治20年前後になると、「年賀状を出す」ということが、国民の間に年中行事のひとつとして定着します。その結果、毎年末から年始にかけて、郵便局には多くの人々が出した年賀状が集中し、郵便取扱量が何十倍にも跳ね上がりました。
とはいえ、郵便事業に携わる人の数は限られています。膨大な年賀状のために、郵便物全体の処理が遅れ、それが年賀状以外の郵便物にも影響し、この時期、通常より到着が遅れることがしばしばありました。これは、見過すことのできない問題です。ことに年末は、商売上の締めの時期にも当たり、郵便の遅延が、経済的障害ともなりかねません。

 

私製はがきを 用いた年賀状
そこで、この時期の郵便実務を簡略化するため、1890(明治23)年には年始の集配度数を減らすなど、さまざまな対策が講じられましたが、さらに増え続ける年賀状に、そのような対応だけではとても追いつきませんでした。
そこで、年賀状を、通常郵便とは「別枠」として処理しようという考えが起こってきます。つまり、年賀郵便は、制度が先にあって増えていったのではなく、増え続ける年賀状を後追いするかたちで、制度ができていったというわけです。年賀状で新年の挨拶をしたいという日本人独特の感性が、国を動かしたと言ってもいいでしょう。

消印は「1月1日」

私製はがきを 用いた年賀状

当時、郵便物は、受付局と配達局で、2つの消印が押されていました。もちろん、年賀状にもその原則が適用されていました。
正月に受け取る年賀状、消印は「1月1日」がいいにきまっています。しかし、早めに出して、年末のうちに配達されてしまったのでは興ざめです。そこで、受付局か配達局の「1月1日」の消印を押してもらうため、多くの人が、それをねらって年賀状を出すようになりました。その結果、年末の26日~28日あたりと、元旦当日の郵便物がふくれあがりました。
その対策として開始されたのが、1899(明治32)年の、指定局での「年賀郵便」の特別取扱です。年末の一定時期、具体的には12月20日~30日の間に、指定された郵便局に持ち込めば、「1月1日」の消印で新年に(必ずしも元旦配達ということではありません)配達しようという仕組みです。

 

夏目漱石・徳富蘇峰の年賀状

この年賀郵便特別取扱の指定局は、徐々に増えていき、1905(明治38)年には、全国すべての郵便局で取り扱いが可能となりました。1906(明治39)年には、年賀特別郵便規則が公布され、法的にもそれが確立されます。ここでも、年賀状への人々の思いが先にあり、法整備がそれを後追いしたわけです。
ただし、この当時の「年賀郵便」は、ある程度の通数をまとめ、束ねて札をつけ、郵便局に持ち込むことが原則でした。年賀特別郵便規則の公布を受け、翌1907(明治40)年からは、はがきの表に「年賀」であることを表記すれば、郵便ポストへの投函も可能となりました。
ここで、現在につながる年賀郵便の制度がようやく完成したのです。