年賀状前史
年賀状の歴史
年賀の歴史
人類社会には、古代から、年賀の習慣があったようです。
エジプトやメソポタミアなど、いわゆる四大文明にも、新年を祝う宗教的儀式の痕跡が多く見られます。人類の生産形態が狩猟採取から農耕牧畜に移ると、種まきや刈取りなどの時期を知るため「暦」が誕生します。それぞれの文化圏で、天体の運行などから、1年は約365日であることが発見され、その1サイクルの区切りとなる日が定められます。その日に、前年の収穫を神に感謝し、新しい年の豊穣を祈ることは、きわめて自然な流れだったのでしょう。
暦が世界的に統一されるまでは、「正月」にあたる季節が地域ごとに異なっていました。また、キリスト教圏のクリスマスのように「祝祭」の重点を1月1日以外の日に置くところもあります。とはいえ、1年に1度、それぞれの健康を祝い、無事息災を願う心情は、人類普遍のものなのです。
そのような年賀の習慣は、当初、家族内や狭い共同体内で、お互いに顔を合わせて行われていたのでしょう。しかし、社会が複雑化するにしたがい、その日に直接会えない親戚・知人の数も増えてきます。そんな人に対して、年賀の意を伝えるため、文字や紙の普及とともに書状が交わされるようになったことも容易に想像できます。
ことに、陰陽道などの影響で正月が重視され、儒教など礼節を旨とする文化が根づいた東アジア(中国・朝鮮半島・日本)では、古くから、そういった「年賀の書状」が交わされていたのです。
日本最初の年賀状は?
その「年賀の書状」が成り立つには、「暦」と、「紙と文字」の普及が不可欠です。もちろんそれだけでなく、その書状を送り届ける通信の手段も必要でしょう。
日本に百済から中国式の暦が伝わったのは6世紀中頃、それが大和朝廷に正式に採用されるのは7世紀の初めです。漢字の伝来はそれより古く、紀元前後と考えられていますが、当初は木片に書かれるのが普通で、紙が比較的容易に手に入るようになるのは6世紀以降です。
その後、7世紀中盤の大化の改新によりさまざまな制度が整えられ、政治的な伝令書を届けるために畿内各所に駅馬を置く「飛駅使」制度が始まります。遠くの人との書状のやりとりが行われるようになるのは、これ以降と見ていいでしょう。ここで面白いのは、同じ年に、天皇が諸臣の賀を受ける「朝賀の式」が制度化されていることです。
それらから推察すると、日本で「年賀の書状」が取り交わされるのは、7世紀後半以降のことだと思われます。では、「日本で最初の年賀状」はいつ誰によって出されたのかといえば、残念ながら史料は残っておらず、正確なことはわかりません。
しかし、平安後期に藤原明衡によってまとめられた往来物(おうらいもの・手紙文例集)「雲州消息」には、年始の挨拶を含む文例が数編収められており、この頃には、少なくとも貴族階級の中には、離れた所にいる人への「年賀の書状」が広まっていたと考えられます。
江戸期の「年賀状」
その後、中世・戦国期を通じ、「駅伝」「飛脚」などの制度が徐々に確立してくると、一般の書状はもとより、年賀のための書状も多くなっていったと考えられます。戦国大名が賀詞を述べた書状なども多く現存しています。
さらに江戸期に入ると、街道の整備とともに「飛脚」制度が充実していき、江戸中期には、町人文化の爆発的な隆盛とともに、遠隔地だけでなく、江戸市中を配達する「町飛脚」なども多く現れます。武士階級だけでなく、庶民が手紙を出すことが、普通になってきたわけです。その背景には、寺子屋など庶民教育の急速な普及があったのです。江戸後期にはすでに、日本は世界一、就学率、識字率の高い国だったとも言われます。その寺子屋で読本や習字の手本として使われていたのは、主には前述の往来物と呼ばれる書物です。つまり「よみ・かき・そろばん」の「よみ」と「かき」は、手紙の読み方、書き方を習っていたのです。
そうしたことから、すでに江戸時代には、「年賀の書状」が、身近な存在であったと思われます。もっとも、それは、必ずしも1月1日に出されたのではなく、結構のんびりしたものではあったようです。1702(元禄15)年に編まれた雑俳撰集「当世俳諧楊梅」(とうせいはいかいやまもも)には、こんな句が載っています。
「六月に 年始の礼は かへり花」
年賀の手紙の返礼が、梅雨の頃届いていたのでは、狂い咲きに例えられても仕方ありません。